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金門島が鍵となる中台両岸の動き

金門県長 金門島を一国二制度の試験地域へ 上

〈金門は海峡両岸の試験地域に〉
 1956年から1992年までの間、金門は台湾の戦時体制試験地域であり、この地域
はいつも戦争とのかかわりが深かった。
 2001年、金門は海峡両岸の小三通(台湾が支配する中国大陸沿岸の金門、馬祖
両島に限定した、中国との直接的な通信、通商、通航)のうち海峡両岸の直接通
航試験地域となった。5年後には金門を通って、台湾人100万人が台湾と中国大陸
を往来すると予想された。
 今年11月6日、金門県の李〓烽県長は、金門を一国二制度試験地域とし、厦門と
ともに金門厦門平和特区をつくることを再度要望している。
 「金門で局地的な一国二制度の試験ができます」金門県県議会で李〓烽県長は、
金門に長期間台湾の法制度下にあった大陸沿海特区島をつくると述べている。李
〓烽県長の構想では、峡両岸の「1つの中国と2つの国」を2つの特殊な関係として
再度考え直すのだという。
 李県長の構想に対し、国務院台湾事務弁公室スポークスマンの李維一氏は、
「台湾の関連党派、団体、関係者からの海峡両岸関係と平和の発展のための意見
交換を歓迎します」と発表している。
 金門と厦門は、台湾在住の詩人である余光中氏の目には、台湾と中国大陸の間
にある自然の門に映る。以前は金門と厦門、門の両側で刃先を突き合わせていた
が、現在は金門は海峡両岸の小三通の中継所となっている。金門は本当に海峡両
岸の交流の先駆者となることができるのかどうか。
〈「一国二制度」は貿易優先〉
 李〓烽県長が今回報告したのは、「21世紀新台湾の突破口――金門を一国二制
度試験地域するための論点メモ」である。以前は「金門で一国二制度を実施する
際の利害と損得」というタイトルであったが、李〓烽県長は「これは金門だけの
問題ではない」と考え、「井の中のカワズになっている台湾が考えなければなら
ない問題です」と話す。
 実は、今回初めて李〓烽県長が金門と一国二制度を関連づけたわけではない。
2002年3月、李〓烽県長が厦門の討論会に参加した際、金門を一国二制度推進試験
地域とすることを2度提案している。
 「もし台湾が独立を宣言すれば、金門は今までの基礎と経験から、金門の利益
に合致した一国二制度を実施するでしょう」2004年の台湾総選挙以後、島内では
台湾独立についての世論が再び騒がしくなってきており、李〓烽県長はこのよう
な態度を表明している。
 「もし金門が徐々に香港化しても、それは何の悪いこともない!」今回の取材
では、さらに一歩進んだ回答をしている。
 2002年3月からずっと中国は金門に回答を求めている。「一つの中国という原則
に沿ってさえいれば、どんな問題でもすべて話し合う準備はあります」国務院台
湾事務弁公室スポークスマンの李維一氏は「現地同胞が希望するように、いつか
実現する日が来ることを信じています」と当時の取材に答えている。
 金門県から選出された呉成典・立法委員は、実現の日は日一日と近づいている
と見ている。
 「小三通が実施されてから5年がたちますが、海峡両岸が最大の誠意を示してお
り、小三通は順調に実行されています。海峡両岸は互いの理解を深めており、中
国では現在、海峡西岸経済特区建設が提案されています。まさに福建を足がかり
に海峡両岸の交流をさらに強めていきます」と取材に答えている。
 「今は、ただ海峡両岸政策の優遇や方法でさらに柔軟性が求められているだけ
です。金門はすぐにも一国二制度のとても重要な舞台となるでしょう」
 李〓烽県長は貿易関係を突破口にできると考えており、最終的には海峡両岸の
統一を目標とするという。
 金門と厦門にはどちらにも大きな標語が掲げられている。海を隔てて金門には
「三民主義での中国統一」、厦門には「一国二制度での中国統一」。中国平和発
展研究センターの研究員で台湾問題の専門家の辛旗氏は、「両方のスローガンに
も「中国統一」があります」とこの状況を評価している。
〈金門には最終決定権がない〉
 台湾の関連法規によれば、海峡両岸の事務と意思決定を行う行政院大陸委員会
等がさらに上位組織としてあり、仮に金門県議会で最終的に県長の構想が通過し
たとしても、金門には最終決定権はない。
 このため、金門県議会の謝宜璋議長も李〓烽県長に「現実との乖離がある点に
ついて留意すべきです」と注意を喚起している。
 国民党議会の党団書記長の楊永立氏も「一国二制度試験地域は県長レベルで決
定できることではなく、この意見を受けて世論は必ず割れるでしょう」と述べて
いる。
 金門県の李麗貌議員に至っては、李〓烽県長に対し、もし特別行政区行政長官
なったら、議員全員との提携を忘れないでほしいと指摘している。
 李〓烽県長は「私たちはこの議題から、それをどうやって実現するのか、みん
なでさらに討論していきましょう」というスタンスだ。「陳水扁総統も、選挙の
際に金門の特別行政区について言及しています」
 新党の雷倩・立法委員は、李〓烽県長の構想に対してさらに深い意見を持って
いる。「金門と厦門は、歴史文化にしても、商業貿易にしても、海峡両岸の現況
も非常に似通っています。だから、金門、厦門を試験地域として、現行の法規規
制を撤廃し、連戦国民党名誉主席の言うように海峡両岸の「共同市場」にしても
構わないと思っています。それとも、馬英九台北市長の言うような「平和発展協
定」でも構いません。どちらでもとても大きな経験を得られるでしょう」。
 「もし規制が緩和され小三通がなされていなければ、金門はただの孤立した死
滅した都市になっていたでしょう」雷倩・立法委員は述べる。「台湾も同様です。
ただ政治イデオロギーを振りかざすだけで経済発展の必要条件を考えなければ、
周辺化しかねず、甚だしくは孤立してしまう可能性もあります」
〈数十万発の砲弾〉
 金門は福建省南東海面に位置し、約60の島で形成されている。最大の島は金門
島で、面積は約150平方キロメートル、錠前の形をしていて、島が多く、天然の良
港で、潮高が高く水深も深い。
 金門は基隆から東に198海里、厦門から西にわずか18海里に位置している。最も
厦門に近いところではわずか2310メートルしか離れておらず、鶏や犬の鳴き声も
聞こえるほど近い。
 金門と厦門は2つあわせて「二門」と呼ばれている。
 「歴史上、金門島と厦門島はずっと南東沿海で重要な港でした。金門と厦門は
ともに同安県に属しており、互いに密接な関係があります」中国社会科学院の近
代史所台湾研究室の〓(*2)静涛・副研究員は2つの島をこのように見ている。
 「内戦が2つの島を分けたのです」
 1661年、鄭成功の船団は金門から東征し、一挙に台湾を取り戻した。その後、
施琅が台湾を統一したときも同様に金門から出航している。
 しかし、1949年以後、金門は海峡両岸の軍事対峙最前線となり、1949年10月、
人民解放軍は金門侵攻に失敗し、悲惨な敗北を喫した。1958年の8・23砲戦で金門
は全世界からの注目を集めた。
 大部分の中国人にとっては、金門砲撃は歴史の1ページにすぎない。しかし、金
門の人にとって、1万発以上の砲撃を45日間毎日受け続け、44年間の戦時体制が続
いたことを意味している。
 毎晩10時から明け方の4時までは夜間外出禁止令が出され、金門島は一面の暗闇
となった。特別な理由がなければ、金門の人は凧揚げ、鳩を飼うこと、さらには
カメラやラジオの所有までが禁止され、これに違反すれば、軍法によって処分さ
れた。
 この時期、金門の台湾守備軍は10万人に達し、台湾軍のほぼ4分の1に相当した。
台湾方面の統計データによると、金門から厦門に向けて撃った砲弾は12万発に達
している。
 「当時の金門は海峡両岸の交戦地であり、砲撃がすなわち海峡両岸の政治幹部
にとっての交流の言語としての存在であったのです」と辛旗向記者はいう。
 海峡両岸で砲撃が行われた重要な歴史背景として、アメリカが台湾の独立を画
策していたことがある。海峡両岸では、適当な時期に互いに砲撃し合っていたこ
とで内戦状態にあることをあらわしていたけれども、同様に海峡両岸の関係が決
裂していないことも明示していた。
 台湾の海軍艦隊が海峡を通過し、東沙諸島へ領土防衛に赴いたときには、人民
解放軍は砲撃を中止している。同様に、西沙諸島とベトナム交戦で中国海軍が援
軍を差し向けたときにも、金門の台湾守備軍は砲撃を中止している。
〈砲撃から協議へ〉
 台湾でガイドをしている張啓文さんは、1976年には金門駐屯の兵士の一人だっ
た。「毛沢東死去のニュースが金門に伝わったとき、私たちは大宴会を開き、大
事にとっておいた金門コウリャン酒を全部飲み干しました」張さんは「戦争が始
まれば、我々は砲撃の犠牲になるのだと皆が感じていました」と思い起こす。
 しかし、最後のときは来たのである。1979年1月1日、全国人民代表大会常務委
員会が発表した「台湾同胞に告げる書」により、「平和的な祖国統一」との大方
針が出され、金門島の台湾軍も「砲撃の停止、待機」となった。この「待機」が
現在でも続いている。
 当時、金門にいた台湾軍の1人であった林正義さんの連長は厦門まで泳いで渡る
ことができたという。その後、北京大学中国経済的研究センターの主任を勤め、
中国人民のための福祉政策の立案を行ってきた。
 1990年9月、中国と台湾の赤十字会が金門で会談を開いた。「規定違反で相手地
域に入国した住民及び刑事犯罪容疑者あるいは刑事犯の送還に関する問題解決の
ための会議」によって4点の協議が調い、両者とも「金門協議」に調印した。また、
これは1949年以来、海峡両岸の民間団体が調印した書面での初めての取り決めで
ある。
 海峡両岸の大局で、金門はまた中心的な役割を演じた。砲撃は協議へとかわった。
 1990年の初め、金門に駐屯していた台湾軍は、10万人から1万人規模へと徐々に
縮小された。最終的には1992年に金門の戦時体制は解除された。
 「毎日対岸の厦門を見ていました。目と鼻の先の距離なのに世界の果てのよう
に遠く、不可思議な感覚でした」金門県県長の李〓烽県長は幼いころの感覚を追
憶している。
 「海峡両岸を砲撃していた硝煙は消え去り、金門は一つの橋となろうとしてい
ます。地理的に特別な位置にあるので、金門の住民は中国人より台湾を理解して
います。同じように台湾人より中国人を理解しています」と金門県から選出され
た呉成典・立法委員は語る。
注)〓は、ひへんに「主」 〓(*2)は、ころもへんに「者」
(次号に続く)
〔南方周末11月16日〕
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