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日本の対中援助の30年

日本の対中援助の30年 1

 1979年から今まで、中国は日本から総額約2248億元の開発借款供与及び各種形式
での技術協力、無償援助を得ている。特殊な歴史的原因及び複雑な民族感情が、こ
の巨大な規模の援助行為を大多数の中国人の知るところとさせていない。
 1970年代末、大量の資金が不足していた中国の改革開放当初、世界は中国にまだ
関心が薄かった。そのとき、日本は最初に中国を支持した国の一つだった。
 戦争賠償を放棄したという善意に感謝云々はおいておいても、やはり日中貿易の
客観的なニーズとして、日本が中国に対して開発援助をするというのが初期の日中
関係の一つの象徴であり、それは中国の初期段階のインフラ建設に重大な貢献とな
った。
 1989年以降、日本政府は最初に対中援助を回復した国の一つだった。1997年から
2001年まで、日本の対中借款はピーク期に突入し、2001年には2144億円(約142億
元)の頂点に達した。
 中国経済発展の動きと軌を一にして、30年間、日本の対中国援助は、沿海から内
陸部まで、そして、中国の初期段階でのエネルギー、運輸等のインフラから、農業
プロジェクト、ひいては環境保護、人材育成まで、ほとんど中国発展の各分野、今
現在までで既に200プロジェクト以上に及んでいる。
 円借款のほかにも、日中関係の激動の30年間で、日本は海外協力隊、シニアボラ
ンティアというように、中国に大量のボランティア、専門家を派遣し、それは中国
の文化、教育、衛生、環境保護等の分野にまで行き渡っている。歴史問題によって
互いに相入れない2国間関係ではあったが、援助、貧困扶助、伝染病対策、水資源
利用等の分野で交流の基盤を打ち立てた。
 30年がたち、2007年の日本における対中国の貿易額は2630億米ドルに達し、初め
てアメリカを追い抜き、日本にとって中国は最大の貿易相手国となった。
 今年3月、日本は最後の円借款を中国に供与した後、日本の対中借款供与は終了
する。しかし、日本の対中援助は存在し続けるだろう。〔南方週末2月21日〕

日本の対中援助の30年 2 雪中送炭

 あと数カ月で国際協力銀行(JBIC)北京代表所の中里太治・副総代表は代表所を
移転させなければならない。
 日本政府の指示により、日本は2008年3月の総額463億円(約31億元)の借款を最
後に、対中円借款の新規供与を停止する。これにより、30年近くに及んだ日本の対
中借款プロジェクトは終了する。
 中里太治・副総代表が籍を置く国際協力銀行が対中円借款を担当していたが、同
行は2008年10月、中国向けに技術協力や無償援助を実施している国際協力機構(JICA)
と統合する。
 国際協力銀行は30年前、対中開発援助(ODA)の実施に伴い、中国に拠点を置い
た。日本の外務省より南方週末に提供されたデータによると、日本は中国に対し、
30年間で総額3兆4000億円(約2248億元)の経済援助を実施してきた。
 日本の対中ODAの範囲は、中国の鉄道、道路、港湾、空港などの経済インフラ建
設のほか、農村開発、環境保護、医療・保健水準の向上など広範にわたる。プロジ
ェクト地域は、中国全国の省、自治区や直轄市に遍在する。
 多くの中国人になじみ深いプロジェクト、例えば、北京地下鉄一号線、北京首都
空港、武漢の長江二橋などのプロジェクトの建設費用にも円借款が利用されていた。
北京地下鉄一号線の例では、円借款が投資総額の20%を占める。
 1979年12月に当時の日本の首相・大平正芳氏が訪中し、「日本は中国の改革開放
と現代化の建設を支援するため、中国に円借款と技術協力を提供する」と宣言した。
これより前の日中国交正常化に際し、中国は日本に対する戦争賠償責任の追及を放
棄すると宣言していた。
 当時の中国は建国したてで、外貨準備が限られている中、外貨資金の手当て、技
術や大型設備の導入が急務となっていた。低利で長期の円借款で急場をしのげた。
 日本は1980年、中国に正式に円借款を提供した。その1年後には、日本は無償援
助を開始した。資金の割合は、援助の90%が円借款、約10%が無償援助だった。
 円借款の開始と時を同じくして、中里・副代表の先輩に当たる竹内克之氏は1980
年、中国に赴任した。竹内氏は日本海外経済協力基金(国際協力銀行の前身)北京
代表所の初代・首席代表となった。
 後輩から「明るく、精力的」と評される竹内氏は、2期にわたり主席代表を務め、
6年近くを中国で過ごした。竹内氏にとって最も忘れがたいのは、当時中国側が積
極的に実施した「学習班」だという。学習班の内容は、国際競争入札の必要性や有
効な方法などさまざまな課題に及んだ。定期的に業務例会や現場研修なども実施さ
れた。
 両国の協議により、第1回の円借款は1979年から1984年の5か年に分け、協定を締
結した。金額は3309億円で、主に「両港両路」建設――山東省・秦皇島石炭埠頭の
第二期工事、埠頭につながる北京から秦皇島へ通じる鉄道、山東省石臼所港と同
省・袞州をつなぐ石臼鉄道の建設――に充てられた。  
 中里氏によると、国際協力銀行は毎回、中国の五カ年計画をつぶさに検討し、円
借款の割り当てを調整したという。中国政府が策定した「第6次五カ年計画」から
「第9次五カ年計画」まで、円借款は一貫して国の重点建設プロジェクトに充てら
れた。
 戦争賠償責任の追及の放棄という善意に対する感謝としてだけではなく、日中貿
易での客観的な需要もあって、日中経済関係の改善の一つの象徴としての円借款は
既に日中関係の改善の象徴となり、中国経済の急進に早くから貢献した。
 円借款の開始後、歴代の日本首相は訪中に際して、円借款プロジェクトを手土産
にしていた。
 中曽根首相は1984年3月に訪中し、中国の7件のプロジェクトに対して4700億円の
円借款を提供することに同意。また、4年後に訪中した竹下登首相は、1990年から
1995年にかけ、42件のプロジェクトに対して8100億円の円借款を提供することに同
意した。これらの円借款プロジェクトは、埠頭、港湾、鉄道、水力発電、電力、通
信などの分野に及んだ。
 当時26歳の中里太治氏は1992年、海外経済協力基金で勤務するかたわら、北京大
学で中国語を学び、中国各地を訪れていた。このとき、中国西部の貧困と低開発、
特に機械化のレベルや都市建設のおくれが、最も印象に残ったという。
 渇いた大地のように、歴史の動乱を経験した中国は莫大なインフラ建設資金を必
要としていた。円借款は当時の中国にとって、いわゆる「雪中送炭」(最も困って
いるときに、救助の手を差し伸べられること)だった。日本円の対中ODAの総額は、
1994年には、中国のGDPの0.29%に及んだ。
 「中国経済が飛躍的に成長した過程で、日本の対中借款が中国のインフラ建設に
大きく貢献したことに、目を向けなければならない」日本の対中開発援助を長年研
究してきた中国社会科学院日本研究所の金熙徳・副所長は感慨深げにこう述べた。
〔南方週末2月21日〕
(次号に続く)
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―――――――――――――――――――――――――――― 李 年古 著 ―
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