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電子マガジン・中国最新情報
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教育・文化ウオッチ@中国最新情報 No.809 2024年3月5週号
発行:《中国最新情報》編集部 http://www.bizchina.jp/
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━【目次】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏【特集:未成年のネットユーザー数の飽和】
●未成年のネットユーザー数が1.93億人 ゲームやショート動画が普及
●12月は住宅価格の下落幅が拡大

┏【李年古の日中異文化交流術】


┏【東西問】
●歴史的転機 マテオ・リッチと徐光啓の友情を振り返る

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……【特集:未成年のネットユーザー数の飽和】……………………………………
●未成年のネットユーザー数が1.93億人 ゲームやショート動画が普及
 2023年12月23日、「第5回未成年者のインターネット利用に関する全国調査報告
書」が公表された。
 それによると、中国の未成年者のインターネット普及率は既に97.2%に上昇し、
基本的に飽和状態に達しているとともに、未成年者のインターネット利用は明らか
に低年齢化の傾向にあり、過去5年間で小学段階の未成年者のインターネット普及
率は89.5%から95.1%に上昇した。
 中国の未成年者のネットユーザーの規模は拡大を続け、2022年には1.93億人を超
えた。2018―2022年では、未成年者のインターネット普及率は93.7%から97.2%に上
昇し、基本的に飽和状態に達した。〔北京商報2023年12月24日〕

●12月は住宅価格の下落幅が拡大
 2023年12月の不動産市場は下落傾向が続き、住宅価格は底を打った。
 国家統計局が1月17日に発表したデータによると、2023年12月、全国主要70都市
の新築・中古住宅の価格は下落が続いている。
 単純計算では、12月の全国70都市の新築住宅価格指数は前月比で0.4%下落し、下
げ幅は11月と同じだった。前期比では0.9%減と21カ月連続の低下となり、かつ下げ
幅が1カ月前から0.2ポイント拡大した。
 新築住宅に関しては、12月に前月比で価格が上昇したのは7都市のみで、前月か
ら2都市減少した。下降した都市は前月から3つ増加し62都市となった。中でも、南
京は1.2%、厦門と武漢は1.1%と、下げ幅はそれ以前の数か月と比較して明らかに拡
大した。
 更に注目すべきは、全国主要70都市の中古住宅価格が前月比で全て下落し、2014
年10月以来初めて全て下落したことである。
 12月の一線都市の中古住宅販売価格は前期比3.5%減少し、下げ幅は前月に比べて
0.6ポイント拡大した。中でも、北京、上海、広州、深センはそれぞれ2.2%、3.4%、
5.2%、3.1%減少した。二、三線都市の中古住宅販売価格は前期比で4.0%、4.2%下落
し、下げ幅はそれぞれ前月に比べて0.4ポイント、0.3ポイント拡大した。
〔金融界2024年1月17日〕
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……【李年古の日中異文化交流術】……………………………………………………
●暮らしはきつくとも、心はしなやかに 1
 今回の帰国で出会った人、経験したこと、どれもありふれているが、私はある種
特別な感情に心を揺さぶられた。
 まず私をこのような気持ちにさせたのは一人のタクシードライバーだった。週末
友人を誘いナイトマーケットに繰り出したところ、何と家を出てすぐタクシーが目
の前にあらわれ乗車することができた。「きょうは何て幸運なんだ、週末のこんな
時間にタクシーを捕まえるのは容易じゃないよ」

 そう言うと中年程度のドライバーは思いがけずハハハと笑い「幸運なのは私で
す」と言った。「今お客さんが減っていて、すぐにお客さんを捕まえられた私こそ
が含み笑いしてしまいますよ」と言った。
 私は「そんなわけはない、これから行くナイトマーケットなんて毎晩人波が渦巻
いているのに、タクシーに乗る人が減るなんてあり得ない」と言った。すると中年
ドライバーは焦らず、かといってぐずつきもせず答えた。
 「今は遊びに出かける人は多いけど、お金を使うのを渋るんだ。以前は週末少な
くとも500万、600万元は稼いだけど、今は300、400万元しか稼げてない。コロナ以
降はこんな感じだよ」

 私は即座に前日の出来事を思い出した。ウィーチャットを介して車を呼ぶと、行
き先が中国作家協会だと聞くやいなやドライバーは興味を持ち「作家さんですか」
と聞いてきた。
 私は「コードワードを触るぐらいさ」と答え、作家に興味があるのか聞いてみた。
彼はとても真面目に「今は仕事が少なくなって暇にしているのもつまらないし、近
所の本屋でうろうろしている、ついでにエアコンで涼ませてもらっているんだ」と
答えた。

 この2日間で出会ったドライバーは期せずして2人とも同じような新鮮な感慨を私
に与えた。つまり、過去、タクシードライバーは余り乗客に構おうとせず、急ぎ目
的地に連れて行こうとしていた。次の稼ぎに早くありつきたいからだ。しかし、今
回は違った。毎回主体的に乗客と話そうとしている。

 もしかすると、暮らし向きが容易でなくなったのが原因かもしれない。彼らは多
くを語るようになり、時間もかけるようになった。まるで腹を割って話すことで慰
めてほしい気持ちが少し強くなっているようだ。
 また、このような話題が他人事でない乗客も多くなっているのではないか。だか
らこそ、私も2台のタクシーを降りた後、ある種物足りないような気持ちになり、
あのままぐちを聞いていたかったような気分だった。

 この感情は、実家から深センに着くまで続いた。(次号に続く)

(このコーナーは、日中異文化コミュニケーションの経験を中心テーマとした文章
を紹介していきます。)

……【東西問】……………………………………………………………………………
●歴史的転機 マテオ・リッチと徐光啓の友情を振り返る
 北京の阜成門大通りの静かな場所、現在の北京行政学院の敷地内に、明朝に中国
へ来た宣教師マテオ・リッチの墓がある。
 当時、外国人を中国の首都に埋葬することは礼儀に反するとされていた。しかし、
善良で勤勉なマテオ・リッチは、西洋から新しい知識をもたらしただけでなく、
「中国の教えに触れる」ことを志し、著作に名を残し、尊敬されていたため、例外
的に万暦帝から墓地を与えられた。荘厳な白い墓碑は、この東西交流の歴史的記念
碑でもある。
 400年以上前、マテオ・リッチと中国の官僚や知識人との交流、特に徐光啓との
友情は、文明交流のすばらしい物語を生み出し、文化的出会いのすばらしさを実証
した。彼らの交流は歴史の長い流れの中で深く静かに流れており、世界的な融合が
深まり、文明の交流と相互理解が求められる歴史的な転機においてますます輝きを
放っている。

〈士大夫と宣教師〉
 1582年、イタリアのイエズス会宣教師マテオ・リッチがマカオに到着した。中国
に来て、「キリスト教は中国人の興味を喚起しない」と感じた彼は、まず中国語、
中国の儀礼、儒教の古典の研究に時間を費やした。さらに、西洋の書物、世界地図、
天文機器などを通して人々の興味を引きつけ、「士大夫」と言われる知識人や官僚
とも交流した。

 マテオ・リッチは、西洋の暦法やユークリッド幾何学などの西洋の知識を中国に
紹介し、欧州の偉大な地理的発見の成果を取り入れた世界地図をもたらした。これ
によって明朝の中国人の視野を大きく広げた。同時に、「四書」をラテン語に翻訳
し、読者に「中国札記」を残した。この出版は欧州で大きな反響を呼び、マルコ・
ポーロに次いで「中国への門戸を再び開いた」と評価された。

 マテオ・リッチが中国と西洋の文化交流をさまざまな形で確立し、促進したこと
は間違いない。このような業績は、当然マテオ・リッチが「郷にいれば郷に従え」
と、学ぶことを楽しむ開放的で敬虔な態度に無関係ではなく、中国の親友である徐
光啓との出会いも関係している。

 徐光啓は上海出身で、マテオ・リッチの描いた世界地図を見て初めて「リッチ先
生」を知った。1600年に2人は南京で出会い、1604年に徐光啓が科挙を受けるため
に北京に赴いたときに、マテオ・リッチと再会した。その後、進士となって翰林院
に官職を得た。北京での数年間、2人は親交を深めた。
 徐光啓は、マテオ・リッチが翻訳した西洋哲学や倫理学の本を読み、西洋科学と
キリスト教の教義についてマテオ・リッチに教えを仰いだ。「私もまた、興味や好
奇心によってさまざまな経験を楽しんで教えを請い、基本的に理解した」、「それ
はあらゆる分野を網羅した」とみずから述べた。マテオ・リッチも徐光啓を称賛し
た。マテオ・リッチに教えを請うために、徐光啓もマテオ・リッチの邸宅の近くに
家を借りて勉強した。

 マテオ・リッチの影響を受けた徐光啓は、西洋の天文学、暦法、地理学、算術、
水利、砲術などの知識を習得し、後にユークリッドの「幾何原本」前半6巻、「測
量法義」などの書籍をマテオ・リッチと共訳した。
 マテオ・リッチが病没した後、徐光啓はイエズス会の宣教師とともに「泰西水
法」を翻訳し、「これをもってリッチ先生と競い合う志を持った」と述べた。さら
に、みずから「勾股義」、サツマイモを紹介した「甘薯疏」などを著し、中国社会
に向けて科学知識を紹介し続けた。これらの著作は、中国と西洋の最も初期の文化
交流の結晶とみなすことができる。

 マテオ・リッチは1610年5月、北京で59歳の生涯を閉じた。ニコラ・トリゴーが
まとめた「マテオ・リッチ中国札記」によれば、マテオ・リッチが亡くなったとき、
多くの友人や「大臣などの地位の高い人々」が弔問に訪れたそうだ。
 棺が墓地に運ばれるとき、「パウルス博士(徐光啓)は特に悲しんでいた……彼
は特にリッチ神父に誠実だった。 彼は有名な高官であったが、友情の最後の痛切
な表現として、悲しみの涙を流した……」とある。
 この異国の友人2人は既に数百年前に亡くなったが、彼らの友情と文化交流は中
国と欧州の間で依然として大切にされ、続いている。

〈再び東から西へ――中国の考え方は想像以上に寛容〉
 上海の中国芸術宮に収蔵されている現代画家リー・ゲンの作品「対話――徐光啓
とマテオ・リッチの文化盟約」は、400年前の2人の親密な交流を再現している。地
球儀や書物が置かれた木製のテーブルの両側で、儒教的な服装をしたマテオ・リッ
チが、官吏の服装をした徐光斉と対話をしている。

 1667年にイエズス会のアタナシウス・キルヒャーによって書かれた「中国図説」
には、徐光啓の肖像画の下に「Magnus Sinarum Colaus, Legis Christianae Propagator」
というラテン語の紹介があり、これは「偉大な中国の学者でありキリスト教信仰の
宣教師」という意味である。

 西洋の宣教師は中国文化に溶け込み、中国の学者は自国の文化とは全く異なる知
識体系や思想信条さえも学んで受け入れた。その文明交流と相互理解の意義は、更
に探求される価値がある。

 北京外国語大学海外中国学研究センター所長で「東西問シンクタンク」の学術顧
問でもある張西平氏は、「東西問」のインタビューに応じ、清朝末期から今日に至
るまで、中国は発展してきたが、中国人もより広い心を持ち、より平和な態度で世
界に対峙するには、徐光啓のようにオープンで寛容で健全な精神を持つべきだと述
べた。
 「中国人は清朝末期の悲劇に戻る必要はない。中国は既に強くなっており、今は
特に清朝末期の悲劇を払拭するための健全な精神が必要だ」(張西平氏)

〈再び西から東へ――欧州にある東洋との交流遺産〉
 「ためらわずに言うと、徐光啓とマテオ・リッチの関係は友情の一つであった。
そして、文化の違いが友情の核となっており、二人とも互いの言語、知識体系、信
念を理解しようと努めた 」とミラノにある聖心カトリック大学孔子学院のイタリ
ア人院長エリサ・ジュニペロ氏(Elisa Giunipero)は、「東西問」のインタビュー
で述べた。
 宣教師マテオ・リッチは中国にキリスト教を広めたいと願って、学者徐光啓は明
朝末期の社会を活性化させたいと願っていた。そして、互いの対話は個人を豊かに
するだけでなく、それぞれの国の発展を促進すると信じていたため、非常にオープ
ンな交流を行い、さまざまな困難を乗り越えた。

 エリサ・ジュニペロ氏によれば、マテオ・リッチと徐光啓の交流は、世界の複雑
さと多様性を恐れるのではなく、むしろ受け入れるように私たちを導いてくれる。
欧州と中国の間には文化的な隔たりというものはなく、むしろ一般に認識されてい
るよりもはるかに大きな影響を与え合っている。彼らの交流は、異なる民族、言語、
宗教信仰を持つ人々の間に可能な平等と調和を示しており、これこそが今日の世界
が急いで取り戻す必要があることだ。

 張西平氏によれば、1500年から1800年にかけて、中国と欧州の間には、それぞれ
が相手の文化に興味を持ち、賞賛する「恋愛」の時代があった。マテオ・リッチと
それに続く多くの宣教師たちは、中国文化を尊重する態度で、中国と西洋の文化交
流の架け橋となった。ライプニッツやヴォルテールを初めとする学者たちは、中国
を礼儀作法と合理性の国とみなした。
 当時の中国と欧州の相互理解が、事実と完全に一致していたわけではないが、理
解と尊敬に基づいて率先して理解して交流を行おうとする姿勢は、現代の人々が学
ぶ価値がある。
 「1500年から1800年にかけての交流は、中国と西洋の共通の文化遺産である。特
に西側諸国にとっては、中国の急速な発展に直面するとき、マテオ・リッチの和し
て同ぜず「儒教との融合」の精神から学ぶべきだ」(張西平氏)

 「マテオ・リッチ中国札記」には、中国に関する綿密でしっかりした観察と描写
が次のよう記録されている。
 「私たちはほぼ30年間中国に住んでおり、中国の最も重要な省の幾つかを旅して
おり、国の貴族、高官、最も著名な学者たちと友好的なつき合いをしてきた。私た
ちは現地の言葉を話し、その国の習慣や法律をみずから研究してきた。そして、最
後に最も重要なのは、私たちは昼夜を問わず彼らの文献を読みあさってきたことだ。
これらの長所はもちろん、この見知らぬ世界に入ったことのない人たちに欠けてい
るものだ」

 マテオ・リッチはかつて、孔子は偉大で博学な人物であり、四書五経は国の将来
の美しさと発展のための道徳的な教えを集めたものであると信じて、古代中国の文
化を賞賛した。中国の親孝行や教師や友人への敬意といった美徳は他国を上回って
おり、中国の機械工芸、伝統的な中国医学、天文学や数学の多くの分野も同様に発
展していると思った。

 同時に封建皇帝の傲慢さ、明朝末期の肥大化して腐敗した官僚制度なども記録し
た。包括的かつ公平な記述により、マテオ・リッチの手記は後世の漢学者にとって
貴重な歴史的資料となっている。
 イエズス会のルイス・J・ギャラガー(Louis J. Gallagher)は、1953年に「マテ
オ・リッチ中国札記」の英語訳の序文で次のように書いている。「あえて言えば、3
世紀前にニコラ・トリゴーの本が初めて世に出て以来、マテオ・リッチに言及した
ことのない漢学者はどこにもいないし、中国の史学家もニコラ・トリゴーの本を引
用しない者はいない。それは中国と欧州の関係の新紀元を開いた……」

 ただし、序文には、「マテオ・リッチ中国札記」は学術的に広範囲に影響を与え
ているが、漢学者や中国史研究者以外には余り知られていないとも書かれている。
エリサ・ジュニペロ氏は、マテオ・リッチと徐光啓の両者に対する理解を広めるた
めには、まだやるべきことがたくさんあるとし、一方を知らずして、もう一方を真
に理解することはできないので、両者の人物像を同時に一般に紹介すべきだと述べ
ている。
〔中国新聞網2024年1月15日〕
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●「ビジネス企業研修@中国」 http://www.bizchina.jp/
●バッグナンバーの入手
(83号以降 2000/9/25―) http://www.bizchina.jp/ja/nweek/
●《中国最新情報――編集者コラム》http://ameblo.jp/jckc-colum/
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編集長:李年古/副編集長:前野貴子 特別協力:劉莉生
翻訳:竹内はる菜 澤田裕子 楊桃 村井好子
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