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日本人は話しべたか?【下】

岡田 章一

プロ野球シーズンも終わりとなったが、TV観戦をしていて、いかにも日本人らしいなといつも思うことがある。それはファンの応援のことだ。あのように大勢の人間が徒党を組んで声援を送る風景は、中国や外国人の目にはどのように映るものだろうか。北朝鮮など体制的な国家が人文字でその統一性を強調する場合と同様、ある種危うい雰囲気もあるが、日本人の場合は全く別種のものだ。あくまで個人個人が自主的に参加して自然にああなるのである。個人が突出していくのではなく、ある形式の中で皆が共通に感情を吐露するという、独特なやり方が日本人にはあるように思える。似たようなものに歌舞伎の観劇がある。そこでは客席から役者への掛け声などは勝手にはできない。その道の専門家がいるからだ。昔から応援までが見事に形式化されており、プロの掛け声屋が観客の気持ちを代表して、役者に応援のメッセージを送るのである。このように、ある形式の中に身を置いて自らの心情を発するメンタリティは、外国人には理解しがたいものかもしれない。

よく指摘されるように、日本人には団体行動では力を発揮するが、一人になると恥ずかしいのか自信がないのか、著しく迫力を欠いてしまう傾向があると言われる。俗に言う引っ込み思案であって、群れの中にいた方が伸び伸びとできるのだ。前に当欄(17)で書いた「桜の花」( 日本人は桜、一つ一つの花びらはともかく、満山咲くとすごい) とも言われる所以であろう。やはりこの点は、狩猟民族ならぬ農耕民族の子孫だからだろうか。

こうした日本人の習癖は、自然に個人の感情を素直に表せないことにも繋がってくる。これがまた外国人の目には、なかなか本音を見せない人種のように映るのも致し方なかろう。問題はこのことが、一対一の話し合いになった時に、とかく日本人を弱く見せてしまう点にある。どうも「個人」が希薄なのだ。別な例として、一般に日本人は当意即妙のユーモアが不得手とされるが、それも「個人」が出ないことの結果である。相手を楽しませるサービス精神を発揮するには、ある程度本人の余裕がなければできないことだ。

それではこのような問題はどうすればよいのだろうか。一つの案だが、まず自らをリラックスさせて、その場で「自分が楽しむ」ことを考えてみる。次についでに「相手を喜ばせる」ことも考えてみる。そうすれば多少は余裕らしきものが生まれてくるだろう。ちょっと自分の中の日本人の壁を壊してみて、群れの中に安住したい気持ちから離れてみる。そうしている内に、いつの間にか口の滑らかになっている自分に気づくはずである。