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閑話・西蔵行

岡田 章一

現在、チベット( 中国語で「西蔵」) には北京から飛行機で直接飛んで入ることはできない。ご存じのとおり、チベットは、中国からの独立運動や、それに関連する民族的な紛争が多い地域なので、中国政府も神経を尖らせており、出入りのチェックが厳しく、やはり簡単には行けない場所の一つのようである。

私たちはまず四川省の省都である成都市にいったん入り、翌朝の航空便でチベットに飛ぶコースを選ぶことにした。私たちの場合は、予め西蔵自治区人民政府と中央の国務院関係者からの招聘という形をとっているので、手続き上はとくに面倒な問題は無かった。

5月上旬の早朝 6:48 に,私たちの乗った西南航空 CZ4401 便のボーイング 757機は成都空港を発ち、5000米級の山々の上を時々ガクガクしながら飛び続けて、午前 9時前にはラサ (拉薩)空港に到着した。チベットの区都である同市は海抜 3,600米の高さに位置する。だいたい富士山の山頂(3,776 米) の感じだ。

飛行機の扉が開いて、タラップを下りる私たちをさわやかな5月の風が包んでくれる。「大したことはなさそうだ」。私はほっとしてつぶやいた。じつは私たちはこの瞬間を非常に警戒していたのである。というのは、前夜の会食の席で、成都市政府の幹部たちから、「チベット入りの初日は特に要注意で、油断するな」とのアドバイスを受けていた。つい先日も、中央政府の某幹部 (超大物とのこと) が、ラサ市の重要な式典に出席すべく北京からやって来たが、到着早々身体に異常を覚え、空港から病院へ直行。結局行事には参席できずにそのまヽ北京へ戻されたとのことだった。相当な高齢者というだけで、その人物の名前を漏らしてはならないらしい。中国では偉い方はいろいろと大変なのだ。

チベット高原の空気は下界の都会のそれよりも澄みきっていて快い。空は青色というよりは濃い落ちついた紺色である。折から昇ったばかりの朝日が鋭く突き通す感じがあってとてもまぶしい。このような爽やかさの中で、ただ足元が何となくおぼつかない感じが妙である。まるで雲の上を歩いているようだ。やむを得ずゆっくりと重々しく歩く。何だか急に老人になってしまったなとも思った。

西蔵自治区のY副主席がわざわざ空港に出迎えて下さった。ハタクという白布を全員の首に掛けてくれて、皆がハワイのレイのようだと喜んだ。昨夜の成都市の幹部がさかんに「神秘的な所ですよ」と言っていたことが思い出される。

「何だか、気分がおかしいなぁ」。熱に浮かされたような頼りなさがだんだん強くなってくる。足を何とか一歩一歩運んでいる感じであった。その時、楊氏がそっと「貴殿の唇が紫色です」と私に言った。チアノーゼの症状が始まっていたのだ。空港からホテルまでは車で約一時間かかる。途中、同行していた荘主任から、車の中に酸素ボンベが用意してあるので、それを吸うかと聞かれた。私は大げさな感じがして断った。ボンベ患者の第1号にはなりたくなかったからでもある。これはほんとうにつまらない見栄だった。ホテルは米国資本のホリデイインである。それを聞いて私はややほっとした。その頃から、私は本当に大変な場所に来てしまったことを感じ始めていた。時々膝ががくっと落ちて、真っ直ぐに歩けない。これが続いて不安が増す。ようやく自分の部屋に入るや、もう立っておられず、そのまヽベッドに横になった。が、耳の中ではドッドドッ…と勇壮なドラムの行進曲が始まっていてなかなか消えてくれない。とにかく頭が風船のごとく破裂しそうな位に脈が早いのが分かる。脈拍を計ってもらうと130もあるという。ふだんは70~80くらいだから、これは只事ではない。やたらに生あくびが連発されて、両手が異常に冷たい。

一時間後に昼食会があるというので、ふらつきながらホテルの食堂へ下りて行ったが、何も食べる気がしない。断ってすぐ部屋に戻り、胃の中の物をもどしてしまう。ベッドに横になり、窓の外を通る鳥や犬などをぼんやりと眺めていた。それらが元気に飛んだり走り回ったりしているのが、その時の私には本当にふしぎに思えたのである。

ホテルには「酸素のルームサービス」というのがある。電話をすると、従業員が空気枕に酸素を詰め込んだのを二つ持ってきた。それを抱えながら、突き出しているゴムの管を鼻に突っ込んで深呼吸する。そうこうしている内に、頭の中のドラム音もやヽおさまってきて、眠くなってきた。その日の夕方、人民政府の病院に連れて行ってもらった。手慣れた医者は、まず私に大きなボンベに入った酸素を吸わせ、酸素を体内に溜めるという漢方薬の「紅景天」をくれた。そして、「水を飲んで、よく眠ること。眠っている内に身体が慣れてきます」と言った。ホテルのロビーで人民政府の張主任が待っていた。彼は私に、「ここに初めて来られる人はみな同じです。無理をしないように」と慰めてくれた。

と、このような具合で、その後約20時間ほどの間、静かに横になっていたと言いたいところだが、実際は半ば昏睡状態のまヽ動けなかったのである。

翌朝も同様の症状が続いていた。前夜は何度か脳の血管が破れはしないか、急に心臓が止まりはしないかと、生きた心地がしない時もあった。今から考えると嘘のようだが、そのような時には仏の世界が見えるような気もした。うとうとしながら何度も同じ夢を見る。何か神仏に関係したもののようだったが、今となってはよく思い出せない。 昼近くになってやっと、前日の医者が言ったように、徐々に身体が順応していることを感じ始めた。水槽で金魚がぱくぱくしているような悪寒はなくなり、吐き気も徐々に軽くなってきた。もっとも、これは胃の中に何も入っていなかったからかもしれない。

医者からは「水を沢山飲め」ということと、「絶対に風邪を引かないように」との二点を厳重注意されていた。過去に風邪をこじらせて落命した人たちがいるという。いずれも高齢者だったが、油断は禁物ということで、滞在中は決して頭を洗ってはいけないとまで言われた。その頃には私たち訪問団 6名の内 4名が何らかの異常を訴えていたが、中でも私のがいちばんひどいようだ。一般に日本人は高地に弱い傾向があるとも聞いた。

その日の夕方頃から、ようやくお茶や砂糖入りのお湯が飲めるようになってきた。どういう訳か後頭部にずきずきと重苦しい疼痛が残っている。肩凝りのような鬱血時の気持の悪い、重苦しい痛みが首筋の両側に巣くってしまったような感じである。

三日目の土曜日の昼近くになって、ようやく歩けるようになり、ラサの街の中に一人で出てみた。お腹に何も入れていないせいか、足元が依然として定かでない。が、これは酸欠の場合とは違い、まだ健康的なふらつきに感じられる。よく勘定をしてみると、結局6食を抜いていたことに気が付いた。この間全く何も食べる気がしなかったとは、いま医者から肥満を注意され減量中の私にはとても信じられないことである。

生まれて初めて目にするチベットの街の風景で、最初の印象は、まずラサの街を往来する人々の恰好が、南米アンデスのインディオによく似ているように思えたことだった。例えば、色の浅黒い女性がハットを被って、編んだ髪の毛を長く後ろに垂らしているような点がそれである。皮膚の色も高地の人間に特有のてかてかした光沢がある。そういえば服装の模様もよく似ているように思われた。全体に鼻筋が通り、目元のきりっとした美人が多いとも思った。知らず知らずのうちに、「コンドルは飛んで行く」の曲を思い出していた。チベットにもよく似合う歌だ。爽快さが戻り、もう吐き気は感じられなかった。

ラマ僧たちにも何度かすれ違った。赤茶色の衣装といい、彼らの目つきといい、私には奇妙な雰囲気の集団だとしか思えなかった。もう私の仏さまへの関心はどこかへ飛んで行ってしまったようである。北京とは違い街全体の空気が澄んでいて、そよ風が心地良い。それまでの苦しみはどこへやら、人間の感覚なんていい加減なものだとも思う。途中で二人の米国人女性に出会った。これからカトマンズへの旅に出るとのこと。欧米人は高山病には強いらしい。午後になって、仲間と一緒に土曜日の街中を見物した。有名なポダラ宮の前で記念写真を撮る。大昭寺というラマ教の寺院に行って、本物の「五体投地」の参詣の様子を見た。石畳の上に身を投げ出す信仰ぶりは本当に凄まじいものがある。私の昨日の夢といい、高地に来ると何か宗教心が高揚してくるのだろうか。周囲の市場では、ダライラマ14世の肖像画が売られていた。政治的にも複雑なものを秘めた地域であることを思い出した。ポダラ宮のすぐ側にある、荘主任の家を訪問した。役人の官舎であるが、後に聞くところでは、最近建ったばかりの団地の方が広くて良いという。そこには彼の運転手が住んでいるんだ、と不満そうだ。チベット特産の食べ物が出された。牛に似たヤクのヨーグルトが酸っぱくて絶品であった。その他にも牛の干し肉、きなこのような小麦粉の主食などを食べた。私には久しぶりの食物なので、それら全部が美味しかった。 その夜の会食は、私にとっては歓迎会でもあり回復祝いの会でもあり、送別会でもあった。皆が異口同音に「もう今度は大丈夫だから」と言った。もう一度いらっしゃい、という意味である。チベット酒で乾杯した時は少しふらついたが、後はいつも通りのにぎやかな宴会となった。歌がふんだんに飛び出した。チベットの民謡も何曲か出たが、やはり哀調を帯びたメロディや曲の調子が、アンデスのそれとよく似ているような気がした。「チベットでは季節によって酸素の多い少ないがある。酸素はこれから増え始める前なので、今はまだちょっと苦しいかもしれない」と主任が教えてくれた。一番多いのは夏期だそうである。酸素の多い少ないがあるなどとは、やはり環境の厳しい場所だ。

翌日の飛行機は給油のためにいったん成都空港に着いた。タラップを降りながら、今度は \'本物の\' 空気をふんだんに深呼吸した。飛行機の排煙ガス混じりの臭い空気だったが、胸の奥まで吸い込んだ。同時に、人間の生態系とはじつにに幅の狭いものなのだ、中国という国は本当に広いなぁということをつくづくと実感していた。