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第16回 ナマの自分を伝える工夫

岡田 章一

ある日本のTV番組で某女性歌手が「ハリー・ポッターは面白くない」という発言をしたら、放送局に抗議が殺到。また別なタレントが「『冬のソナタ』なんてうじうじていて、なんで人気があるのか」と言ったとたんに非難轟々となる。このような騒ぎは日本特有のものかもしれない。民主主義の日本は、世界でも有数の言論が自由な国のはずだが、そのじつ決して自由ではないのだ。特に有名人はいつも大勢の意見や感触の中にいて、標準のところで行動していないと異端児扱いされる。個人の意見も自由に言えない「枠」があるのだ。私の知人に日本に帰化した中国人がいるが、その息子が学校でいじめを受けている。事情をきくと、彼が中国系だからというのではなく、どうも自分の意見をずばずば遠慮なく言うところにあるらしい。またその昔、ある企業の中で「ブレイン・ストーミング(BS)」をやることになった。当時このBSは、企業を活性化させる経営手法の一とされていた。日頃考えている意見が飛び交い、自由な討議が続いて、順調に進行しているかに見えた。ところが途中で人事部長がやおら立ち上がり、「黙って聞いていれば、何を好き勝手なことを言うか。自分の立場をよく考えてものを言え。これは仕事であって、無礼講じゃないんだ」と怒鳴って中止になったという。じつはその企画を持ち出したのも彼だったのである。ありそうなことだ。理屈では分かっていても感覚的に切り換えられない。日本人が持つこのような一種の「制約」を、中国人に分からせようとしても無理である。
一般に日本人は会議での自分たちの発言は、面白味がなくて下手だと思っている。国際会議等における日本の政治家や役人たちの例を見ていても否定はできない。だがそれは間違いである。日本人は元来話術には相当に優れたセンスを持っている民族なのだ。それらは古典や伝統芸能の中にも脈々と生きていて、その微妙な表現力やユーモア精神も決して他に劣るものではない。くだけると本当に話しが上手な人物が周りにも少なからずいる。日本人の話し下手は本質的なものではなく、アウトプットに制約があるからなのである。

中国で、こうした本当の「自分」をアピールできるように努めることは無駄ではあるまい。それには、自分の持ち味を自由に発揮できる場を積極的に作ってみることである。相手の人物にナマの「自分」を知ってもらえば、人間関係を向上させる上で大いに効果があるはずだ。対する相手の方も、さらにレベルが上の人間的側面を見せてくれることだろう。お互いの好意とは、このようにして次第に濃くなっていくものなのだと思う。

中国人との会議