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第18回 閑話。反日で思い出すこと

岡田 章一

先きのアジアカップ蹴球大会で起きた重慶や北京での反日行動を見ていて、不快感を抱いた日本人も少なくないと思う。「もう中華料理は食わない! 」などとおかしな事を言い出す友人もいた位である。だがこの一連の騒動を見ていて、私は私なりに強く記憶に蘇ってきたことがあった。今回は夏休みの「閑話」として、それを書いてみたいと思う。

まず予めお断りしておくが、私は中国の在任中に反日感情をぶつけられた経験が一度もないのである。仕事がら南京や上海にもよく出張したが、公的、私的な場でもとくに何もなかった。幸運なことだと思っている。南京では心して「虐殺記念館」に数多く足を運んでみた。が、毎回多くの小中学生達がバスで来て見学していく姿を悲しい気持ちで見守るだけであった。従って中国の反日感情の問題に関しては、私は語る資格も材料もない。

だが、反日感情というと、すぐに強烈なある経験が私の脳裏に戻ってくるのだ。それは韓国での出来事である。1986~93の間私はソウルの現地法人の代表として駐在した。その頃韓国は日本に追いつき追い越せという時で、その事もあって反日ムードが強かった。五輪開催を前にした国民は自信に溢れ、上昇気流に乗って世界に乗り出す時期だった。

その時の「会議」で忘れられないことがある。賃上げを巡る労働組合との交渉の場での事だった。組合側は搾取されてきた労働者が挽回をはかる絶好機と伺っていた。幹部はみな30台の若い世代で、大戦後の反日教育の結実である。従って理論整然とした話など出来るはずがない。毎回交渉は行き詰まり、必ず怒声が飛び出してきた。「この半島で秀吉が何をしたか」「伊藤博文の罪悪を謝れ」「愛国者の安重根、柳寛順の死を償え」。日本人は韓国人に償いをして当然だとの主張だ。私はあえてそれを上滑りの屁理屈だと解釈した。また「そう言えば日本人は降参するだろう」との計算も見えていたので、不当な要求は全て撥ねつけた。その結果デモ隊に何度も社長室に雪隠詰めにされ、家には絶えずいやがらせ電話がかかる。会社の廊下で社員に殴られもした。だが交渉の場では、私は常に「その事と賃上げとどんな関係があるのか」を論じ、交渉の軌道を戻そうと努めた。しかし韓国人の心にある反日感情は根強く、最後まで彼らは理解しようともしなかった。そしてそれは生まれてから私が受けた最も強い反日行動であり、いささか奇妙な体験でもあった。

あれからもう20年近くが過ぎた。その後、1988年ソウル五輪、1993年の大田万博、そして2002年の日韓ワールドカップ大会を経て、韓国は国際的にも大人の国に成長した。

中国人との会議