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日本人は話しべたか?【上】

岡田 章一

一般に日本人は、中国人などに比べると話しべたが多いと書いた。確かに日本人は、大勢の人々がいる場所、例えば会議や宴会などで話しをすることを苦手とする傾向が強い。ふだんの生活ではかなり話し上手な人でも、大人数を前にすると、紋切り型で切り上げてしまったりするのはよくあることだ。この困った習性の原因は一体どこにあるのだろうか、と自分自身のことも含めて時々考える。そんな矢先きにたまたまある葬式に列席して、その典型的な例の一つを目の当たりにした。

それは、その葬儀の最後に喪主 (故人の長男) が挨拶に立った時のことである。彼の緊張ぶりは殊のほかひどく、遠くからでも手に持ったメモが震えているのが分かった。彼はその紙を見ながら、参列者に「隣の部屋に食事が用意してあります。どうぞ席をお移り下さい」と言っただけで、「ご挨拶」は終了した。私たちはあっけに取られた。後に聞いた話では、その長男氏は人前に出ると極度に緊張する(いわゆるアガる)癖が出て、パニックに近い状態になる。今回は重要な葬儀なので、長男として何とか無事に終わらせたい。そこで、短くても間違えが無いようにとメモを用意したというのであった。だが、この大事の取り方は明らかにおかしかった。たとえ言い間違えても、彼はメモ無しで自分の言葉を話すべきであったし、加えて内容もただ形式的に何かを言ったというだけだった。会話というものは、まず自らの喋りで話すことがその本質である。人間は相手の言葉を初めに心で受け止め、そのメッセージを頭に入れたいと考えているものだ。その葬儀は、全てにおいて行事を無難に終わらせたいとばかり、形式的に流され、まるでお役所仕事を見るようであった。誤解の無いように申し上げておくが、私は、たまたま行った葬式の(気の毒な)喪主を責め立てているわけではない。その状況を見ていて、日本人にはとかくこうした形式に流れる傾向があることに思い至ったからである。日本人は国際会議などでは、それが重要であればあるほど、慎重に原稿を作って発言に間違えがないようにする。これが一般的な習慣となって、どんな小さな会話でも原稿を読みたいという人が出てくる。慎重なのはよいが、会話に血が通わない方に向かっていることに気付いていないのだ。小泉首相が登場した時には、彼はメモ紙も持たずに溌剌と自分の言葉でその考える所を語っていた。しかし、最近は官僚の準備した原稿読みが多くなって魅力がなくなった。何ごとも人間的に通い合うものを失ったら、その価値は数段落ちるものなのである。